フランク安田は何をしたのか
明治維新の年である1868年、安田恭輔(後のフランク安田)は、宮城県石巻市の医家の三男として生を受けました。16歳で見習い船員として渡米の後、船が難波してアメリカ西海岸に漂着。氷雪のアラスカを彷徨った後、北極海に面した最果ての村バローにたどり着きました。
イヌイットの女性ネビロと結婚して、フランク安田と名乗ることになりました。
アラスカのモーゼ
当時、欧米人の持ち込んだ麻疹(はしか)の大流行とラッコやクジラの乱獲で村は壊滅的な打撃を受けました。イヌイットたちに請われて村のリーダーとなったフランクは、数名の村人を引き連れて、新天地を求める旅に出ました。
原始境ブルックス山脈を越え、3年に及ぶ苦闘の末に、ユーコン河畔に理想の土地を発見します。歴史的対立関係にあったインディアンと命懸けの交渉をして、ついに正式に土地を手に入れました。バローで待つ村人200名を迎え入れ、金鉱発掘で得た富を費やして理想の土地を切り拓き、そこをビーバー村と名付けました。
村人の生活安定のために交易所を営み、野菜栽培に挑戦。さらに、毛皮などの販路拡大を求めて、シアトルやロサンジェルスにも行きました。
第二次世界大戦中、日本人としての”節”を曲げなかったせいで強制収容所に収監されましたが、アラスカ中の人々がフランクのために「反対署名」をしてくれました。戦後はすぐ村に戻り、献身的な活動を再開します。
1958年、日本が敗戦の混乱を抜け出し奇跡の経済復興へ突き進もうとするその時、フランク安田は一度も故国に戻ることなく、ユーコンの畔で息を引き取りました。享年90歳。異国の地で、人のために生き抜いた生涯でした。
後年、フランク安田の長年の貢献に対し、アラスカ州より表彰状が贈られました。今もフランク安田は、現地では「アラスカのモーゼ」と尊称されています。